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日本史 [書院造]


大社造神明造八幡造寝殿造書院造数寄屋造近代建築現代建築

原始住居仏教建築城郭建築民家


書院造

◆書院造は寝殿造の母屋と庇との組合せ、内部構成を出発点とする方格的な空間分割であり、また内部の解放性もそこに由来する。寝殿造は開口部に重い格子や半蔀や妻戸を使用したのに対し、書院造では軽い明かり障子と板戸を併用。匠明に拠ればその頃雨戸も出来、外回りの開口部に明かり障子のみを使用する全く明るい開放的な住宅ができあがる。それは住宅の全く日本的な展開である






●二条城
 徳川家康が上洛の際の居館として建てた
 1788年焼失
 現在のは、旧桂宮御殿を移築したもの


●帳台構 (二条城)
 上段の脇に取り付けられた
 別名「武者隠し」と呼ばれていたが、非常に重い扉のため簡単には開けられないことから「塗篭」が装飾化されたものと考えられている


●金閣寺(北山文化)
 正式には鹿苑寺
 1950年に放火により消失
 1955年再建
 14世紀、足利義満が別荘北山殿を建て、死後遺命により夢窓疎石(臨済宗の僧侶)を開山として寺としたのに始まる


●蔀戸
 蔀戸は、細かく格子を組んで裏側に板を張り、外または内側に押し上げて開く水平軸の板戸
 開いたときは金具で止めていた
 写真は金閣寺の一階部分の半蔀戸で、角柱になっているが、寝殿造りの場合は、丸柱になります


●銀閣寺(東山文化)
 臨済宗の寺
 慈照寺が正式名
 15世紀に足利義政の建てた山荘東山殿を遺命により寺とした


●東求堂
 東求堂は、四室からなり、その中の四畳半の部屋を同仁斎という
                 


●東求堂(同仁斎)
 会所」と呼ばれる「書院座敷」で、少し開け放された障子との隙間から、庭が借景となり、掛け軸のようになる
 畳の敷詰めに角柱、違棚、付書院をもち、現代和風住宅の起源ともいえる

●卯建
 このころ下町では、卯建のあがった民家がみられる
 卯建は火事での類焼を防ぐため、隣家との境に高い壁を設け、その上端に小屋根を置いた
 「うだつが上がらぬ」とは富裕の家でなければ、卯建をあげられなかった事から転じたといわれる






城郭建築




●安土城
 1576年、近江国に織田信長がきずいた城郭でわずか3年で焼失
 信長好みのその建物は、高さ約46メートル、釈迦説法図の襖絵に総朱漆塗りの床、柱、梁、金箔で埋め尽くされた天井と壁面、極彩色と金箔に埋め尽くされた豪華絢爛な天守閣であったとされる
 世界で最初の木造高層建築といわれ、ヨーロッパにまで紹介された   CG・・・安土町HPより


●大阪城
 金(錦)城ともいい、豊臣秀吉は、石山本願寺跡地に注目し、ここに政権の本拠として建設を開始し、1585年に天守閣や本丸御殿が完成し、94年(文禄3)に総構の外堀が整備された
 現在の天守閣は、第2次世界大戦前の1931年(昭和6)に鉄筋コンクリートで復興されたもの


●姫路城
 姫路市にある平山城の典型で白鷺城として有名
 完成当時は江戸城につぐ大城郭だったとされ、建物はすべて白漆喰(しっくい)塗、瓦の重なり部分にも白漆喰がつかわれて、その美しさは白鷺城の名にふさわしい
 戦火や落雷の被害もなく、天守閣はじめ櫓、門など多くの建物がのこされ、日本の城郭建築の最盛期につくられた優秀な城として、1993年、世界遺産にも指定された


●伏見城
 京都市伏見にあった城郭で、1592年(文禄元)に起工、94年に完成したが、96年(慶長元)の大地震で崩壊したため、現在の木幡(こばた)山に築城しなおした
 1623年(元和9)幕府によってとりこわされ建物は天守を二条城等に移した
 城跡には桃の木がうえられたため、江戸時代には伏見桃山とよばれ、桃山時代の名のもとになっている

●二条城
 京都市中京区二条城町にある近世城郭
 徳川家康が上洛の際の宿所用に築城したもので、将軍就任の儀式用という目的もあったと推定される
 関ヶ原の戦の翌年、1601年(慶長6)、諸大名に造営費を課して築城を命じ、翌年にはほぼ完成
 はじめは5層の天守閣もあったが、1750年(寛延3)に落雷で焼失、88年(天明8)、京都の大火では二の丸御殿を残してほとんどを焼失した



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